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フィロッパポウの丘ののどかさの中で、アクロポリスの向かいに建てられたドーラ・ストラトウ屋外ダンスシアターではギリシャの地方伝統文化が毎晩息を吹き返します。75名のダンサーやミュージシャンは歌、音楽と地方伝統舞踊でもってギリシャの伝統を観覧者へ披露します。また、ギリシャ伝統舞踊のレッスンは個人及びグループ向けに通年で開かれています。

 

パフォーマンスは5月から9月まで。水曜日から土曜日までは21時半の開演、日曜日は8時15分の開演。予約の必要はありません。

 

シアターへのお問い合わせ(19時半以降)

電話: +30 210 921 4650

オフィスへのお問い合わせ(9時から16時まで)

宛先: Scholiou 8, Plaka, 10558 Athens, GREECE

電話: +30 210 324 4395

ファックス: +30 210 324 6921

mail@grdance.org     www.grdance.org

 

 

 

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ドーラ・ストラトウ

 

ドーラ・ストラトウはアテネで1903年に生まれました。ドーラの母マリア・コロミラは、由緒あるアテネ出身の劇作家(『羊飼いの恋人』『マロウラの運命』)でジャーナリストのディミトリオス・コロミアスで、ドーラの父親ニコラオス•ストラトスは、エトロアカルナニア地域の村ロウトロ出身の弁護士でした。かくしてドーラは20世紀の初めにアテネの上流階級の都市環境で育つことになりました。ドーラは歌謡と多言語を学び、名家の子息たちを学友と持ちギリシャ宮殿のパーティへ足を運ぶこともしばしばでした。また、彼女は後にニューヨーク•フィルの指揮者を勤めるディミトリ•ミトロプーロスのもとでピアノを学びました。ドーラは人生を通して演劇やコンサートに情熱を注ぎます。

 

ドーラの父ニコラオス•ストラトスは、ディミトリス・ラリス首相の任期間は内務大臣を務め、後には海軍大臣にもなったエレフテリオス•ヴェニゼロスの自由党に参入することになります。1913年ニコラオス•ストラトスは王党派の政党に打ち勝ち、1922年に起こったアジアでの災害の数日後に首相に就任しました。しかしながら彼は逆罪のために死刑を宣告されることになります。

 

ドーラの母はドーラとまだ幼い息子アンドレアスを連れてギリシャを立つ決心をします。豊かな生活の後に突然起こった財産の没収と生活の激変、また父親の死刑と世間からの屈辱は、まだ若いドーラの心を深く傷つけました。傷ついたドーラとその家族はその後10年間ベルリン、パリ、ニューヨークを転々として生活することになります。

 

ストラトウ一家は1932年にギリシャに帰国します。弟アンドレアスは、法律を勉強し議員として選出されました。ドーラは二つの大戦間に新たに台頭してきた知識人と交流するようになりました。彼女は二度結婚し、二度離婚します。第二次世界大戦中のギリシャ占領下には、大司教の慈善作品の制作活動に積極的に参加しました。彼女は後に有名になるディレクターのカロロス・クーンと彼の『芸術劇場』の管理に力を注ぎました。

 

1952年ドーラは偶然ヨーロッパ遠征中の民族舞踊や音楽、伝統衣装一式を揃えたユーゴスラビア出身のグループに面会することになります。当時のギリシャには非常に少数の舞踊グループしかなく、その中のひとつで先駆者『ギリシャ人女性のリュセウム』は、再製造されたアマリア伝統風の衣装を纏い年に数回公演するだけでした。また『ギリシャ人女性のリュセウム』は、主にアテネの良家出身の若いダンサーたちの好奇心と舞踊への情熱を披露する場であるに過ぎませんでした。

 

民俗学の大学教授ジョージ・メガスは、ギリシャの伝統芸能を伝える組織の設立を提案します。ドーラ・ストラトウはその後副総裁であったソフォクレス・ゼニヴェロスに経済的支援をするよう要請されます。メガスの主眼はより活発で海外公演も可能なプロの舞踊グループを確立することにあり、豊富な舞踊のレパートリーと多くのギリシャ伝統衣装を備えたグループの創設が理想とされました。それと同時に『ギリシャ舞踊 – ドーラ・ストラトウ』と名乗るグループも結成されました。

 

ドーラは当時多くのアーティストや知識人の卵を援助しており、彼女にとって後援者からアドバイスを受けることは容易でした。画家スピロス・ヴァシリウ、作曲家マノス・ハジダキス、画家ヤニス・ツァロヒス、音楽学者フィボス・アノルヒアナキス、音楽学者サイモン・カラス、画家ヤニス・モラリス、詩人オディッセイアス・エリティス、民俗学者ネストラス・マツゥアス、作家アレコス・リドリキス、俳優ディミトリス・ホーン、民俗学者ディミトリス・ロウカティス、民俗衣装学者アゲリキ・ハジミハリ、ピアニストジーナ・バチョー等の後援者がドーラの元に終結ました。

 

50歳のドーラは熱意を持ってこのメガスの申し出に答えようと尽力します。最初の衣装は画家ヤニス・ツァロヒスの手によって製作されました。ドーラは民俗舞踊や歌謡、衣装、民俗装飾品をギリシャの村々を回って収集し、最高のダンサーと民族楽器がドーラによって精選されました。彼女の努力は功を奏し、彼らは世界21カ国での公演で大成功を修めました。

 

1963年コンスタンティン・カラマンリスは、フィロパポウの丘の中腹に『ギリシャ舞踊 – ドーラ・ストラトウ』のために特別な劇場の建設を命じます。軍事政権下の1967年、ドーラは自宅に逃亡新聞記者クリストス・ラブラキスを匿っているとして逮捕されました。メリナ・メルクーリは海外でドーラの無罪を主張し、かくしてドーラは釈放されることになりました。同年ドーラは世界的に権威のある賞を国内外で数々受賞することになります。

 

ドーラ・ストラトウは3冊の本『伝統とそして冒険』『ギリシャの踊り-古代と現代とのリンク』『伝統的なギリシャ芸能』を執筆しました。また彼女は50のレコードを残し、彼女の制作した品々は世界で最も充実した民俗音楽のひとつとして認められるまでになりました。ドーラは病気のため1983年に引退し、1988年1月にその生涯に終止符を打ちました。

 

アルキス・ラフティス